2010年06月18日

昼ドラ・娼婦と淑女第三部を弁護してみる

東海テレビ昼ドラ・娼婦と淑女、第三部。

いろいろと物議を醸している第42話以降の放送分ですが、13話分の放送が終わっています。
最終回に向けて、あと11回の放送がありますので、とりあえず終わらせてほしいところですが、この「第三部の迷走」は、何が原因だったのか、批判のための批判ではなく、違う角度からせまってみたいと思います。

まず第一に、「娼婦」「娼館」という設定にみられるように、「ベッドシーン」を物語の中において正当化する、つまり物語の中においては「それをやるのは当たり前だ」というぐらいの自然な流れとして扱うため、ということが、「迷走」「破綻」を誘発した背景のひとつにあるのではないかと思われます。しかしこれは「昼ドラ」には「なくてはならぬ」、ベッドシーンが無くては何のための「昼ドラ」なのか? ということにはなりますが、第三部をみるかぎりにおいては、必ずしもよい結果に結びついているとは思われません。

このへんは、シチュエーションをはじめ、「娼館なんだから」「娼婦をやっていたんだから」ということがあるからこそ、視聴者としても抵抗無く、むしろ安心して? ベッドシーンをはじめとした、男女のいろいろなこと、を見ることが出来たり、また、制作サイドとしては「描く事」がたやすくなる、ということが、あるようには思われます。

そのことが、第52話ラストから第53話にかけての、あの紅子と陽平の「ベッドシーン」と藤堂の乱入の前後、という、男女の特殊な三角関係を描く、という場面を作り出した背景のひとつに、あるのではないかと思われます。

そして何よりの問題点は、より刺激的な状況、奇抜で、強烈な「アッと驚くような」、そんな場面を劇中で描くことを、中心にしすぎているのではないか、ということが、みてとれます。(それが「売り」なのでしょうけれども)そのために、前後の話の流れや展開をこじつけてでも、「予定された場面・より刺激的なシチュエーション」を優先して描かなければならない、ということから「破綻」が発生しているように思われます。そうしなければならない何らかの絶対的な理由があったのだろう、とは推測されますし、この点が、「弁護」ということになりますが、あまり多くは語らずにおきたいと思います。

つまり『娼婦と淑女・第三部』は、打ち出すなんらかの主題を、ドラマを積み重ねて描くということよりも、第52話ラストから第53話にかけての紅子と陽平の「ベッドシーン」に藤堂をからませる、そして、また、第53話ラストから第54話にかけての、藍子と藤堂のベッドシーンに、紅子をからませる、というようなより「ショッキング」で、驚くような、愛憎の場面を描きたかった、あるいは「描かなければならなかった」のではないかと思われます。

あるいは、そのような「より視聴者が驚くような、こみいった男女の状況・その特殊な愛憎模様」を、打ち出したかった、ということになるでしょうか。

そうしなければならなかった理由については、わかりませんのですが、結果として、第一部・第二部と見続けてきた視聴者たちの多くにとりまして、必ずしも歓迎される結果には、結びついていないのではないか、と推測されます。これは私自身も、そうした印象でありまして、ブログでのこのドラマの記事の扱いを中止しようか、との思いにいたった次第です。

しかし、第一部・第二部に惚れ込んでしまったということから、タイトルが『娼婦と淑女』である以上、やはり最終回まで、おつきあいしなくては、ということで、少し角度を変えまして、記事のほうは続けさせていただいております。

どうしても「場面先行・シチュエーション先行」になっている感の大きい第三部ですが、残された放送回を、なんとか見届けていきたいとは思っています。

私自身は、ある意味、とても勉強になっています。



同じカテゴリー(かつての「とある」ひとりごと)の記事